父の追悼文

靖子

それは自然なめぐり合いでした。



私は日本にいて、人生半ばのキャリアの岐路にいました。彼女は私が通っていた研究機関の図書館で働いていました。


その食堂の列で、なぜか彼女は私の目に止まりました。穏やかで、健康的で、知性的で。

a0255362_08171512.jpg


彼女と話すことができました。彼女は泳ぐのが好きだと言いました。仕事の後に地元のプールに行こうと誘いました。プールのあとはいつも決まって、近くの渋谷で焼き鳥でした。



彼女は大学で英語を学び、さらに学習を深めようとしていました。それなのに、自らを後回しにして、日本語に苦戦していた私を助けてくれました。それはいかにも彼女らしい優しさでした。-物惜しみせず、打算せず。


プールへの小旅行から、東京周辺の山や高原への日帰り旅行に足を伸ばしました。その次は奥多摩や秩父のより高い山の山荘への一泊旅行に。気がつけば、富士山のすぐ奥の、知られざる南アルプスの3000メートル級の山々に挑んでいました。

時にその登山は厳しく、危険でさえありました。でも彼女は決して文句を言わなかった。

彼女は戦前の時代に育ち(本州の北部、東北と言う地域で)、困難を受け入れることを経験してきました。大学を卒業して公務員試験に合格し、公的機関であるアジア経済研究所(通称「アジ研」、現Jetro)に入所しました。彼女の父は元炭鉱夫で、産業が衰退するとともに、当時の高校では一般的だった文法重視型の英語教師へと転身しました。

伝統を重んじる妻(靖子の母)とともに、4人の娘を育む中流的な家庭を築き上げました。


次第に、彼女は週末の山の冒険に対する私の好みを理解するようになりました。彼女は私に、”Yowane wo hakanai” (「弱音をはかない」)という言葉を教えてくれました。


私のアジ研での研究も終わりが訪れ、オーストラリアに戻って論文を書き、仕事を探す時が来ました。また日本に戻ってくるだろうか?戻るかもしれない。でも日本でまだ一年しか過ごしておらず、言語も文化も表面的にしか理解していませんでした。キャンベラには親友もいました。仮にオーストラリア以外の国で働くとすれば、若きころに仕事で過ごした中国やロシアのほうが理にかなっているように感じました。そして中国について言えば、香港を拠点にした良いオファーも実際にありました。


でも靖子は、私が日本と彼女のことを思い続ける、素敵なことをしてくれました。在日中、私は日本語を学ぶために「私たちの言葉」というラジオ番組を好んで聞いていました。主に高齢層の視聴者から送られる、人生にまつわる様々な問題についての手紙を読み上げる番組でした。靖子は毎週その内容を録音し、可愛らしい手紙(日本語での)とともにオーストラリアにいる私に送ってくれました。

自分の次の一歩を選ぶタイミングが訪れたとき、私は日本を選びました。


離れた二年の間で、彼女は何も変わりませんでした。週末になると彼女は、私が東京の中心に借りていた庭の中の離れを訪れました。時間が経つとともに自然の成り行きで、彼女が住む郊外の家から、便利な早稲田の私の社宅に移りました。進歩的な考えの彼女は、「結婚は封建時代の遺産」と捉えていました。私の価値観も同じでした。私たちの最初の息子、段が生まれた時は多くの友人を家に招き、子供が始めて魚とお酒を味わう日本の伝統的な儀式、「お食い初め」を行いました。私たちにとって、息子の誕生を周りに知らせるには、結婚式よりもこっちのほうがはるかに自然な形に感じました。さらに、息子が母の国籍を受け継ぎ、苗字も「丹埜」を使うことが自然に映りました。


1975年に、政府の仕事でキャンベラに戻りました。靖子は国立大学図書館で日本分野の良い仕事を見つけました。一年後に政権が崩壊し、また日本に戻りました。私は上智大学での小さな仕事のオファーだけがありました。幸いなことに、靖子はまたアジ研に戻ることができ、私たちは何とか経済的にやっていけました。東京の四ツ谷近くに小さなアパートを借り、私は二年前に依頼されていた日本についての本の原稿を書き上げることにしました。


われわれ外国人が日本をどのように見ているかについての関心の高まりのおかげで、その本は私を大学の正規教授に昇格させ、メディアに毎日のように露出させました。そして、日本の端から端までを日帰りで移動しながら(時には途中下車をしながら)行う、講演活動という面白い世界にも踏み入れました。気がつけば、市ヶ谷に小さな庭付きの中古の戸建てを買うことができるようになっていました。


この頃に二人目の息子、倫(ロン)が生まれました。様々な新しい仕事で忙しくなった私は、アジ研

の仕事をこなしながら二人の子供を育てている靖子の苦労を部分的にしか手伝うことができませんでした。それでも、彼女は決して文句を言わなかった。

私たちは子供たちをバイリンガルに育てようともしました。私が話す英語は「お父さんの言葉」、彼女が話す日本語は「お母さんの言葉」でした。


二人の子供の存在により、登山の冒険を続けることができなくなった私たちは、「自分たちの山」を探そうと決めました。東京からすぐ離れた房総半島の荒れた山林の中で。そこは完全に未開拓な土地で、水は谷の奥底を流れる小川からしか得られず、車の通り道もなく、電気もなく、山また山の景色しかない場所でした。


でもそれはすべて私たちだけのものでした。見渡す限り、かすかな他人の存在すら感じさせず。ほとんどの日本人女性が、そんな荒れて孤立した場所からは早く逃げ出したいと考えただろうと思います。でも靖子はそれが大好きだった。当の私以上に。


のちに、私たちはもう少し良い立地へと移りました。古くは畑だった場所で、家を建てたり、野菜や木を植えることができる地でした。私と同じく、彼女も自然農法に対する興味を持っていました。彼女は特に山菜集めを楽しんでいました。


アジ研での彼女の研究分野はアフリカの教育についてでした。その関係で、彼女はケニアのナイロビで一年、その後にロンドンで一年過ごし、そこでは子供たちをボーディングスクールに送りました。英語をしっかりと身につける、理想的な年齢でした。(10歳くらい)。そのおかげで、日本に戻った後、息子たちはアイデンティティや英語力を失うことなく、日本の高等教育へと進むことができました。


彼女は読書が大好きでした。毎週のように、私の仕事に役立てようと、日本語の記事や参考文献を見つけてきました。のちに、私は彼女の英語→日本語の翻訳の素晴らしい才能を知らされることになります。彼女の文章は明確で簡潔でした。彼女の翻訳のほうが私の原文よりも読みやすいという人さえもいました。彼女のもう一つの才能は絵画でした。古い建物、寺社、花や森の景色の、愛らしいスケッチの数々。


彼女の日常もまた素朴なものでした。房総の鴨川市近くの海岸の町、天津に買った古い家で過ごし、そこで友人の輪もできました。人は彼女の素朴さと、正直な魅力に惹かれました。大きなスーツケースにしまえるくらいしか服を持っていないのに、それでもなぜか、格式高いパーティや集まりに行けば、部屋の誰にも引けを取らないエレガントさがある、そんな女性でした。


猫が大好きで、東京に行かずに天津で過ごす使命感を感じていたのは、我が家生まれの22歳、老いたベンベンちゃんのそばにいてあげるためでした。



終わりはゆっくりと訪れました。



ある日、めまいのせいで天津の家の階段から落ちてしまいました。怪我を負ったにもかかわらず、一昼夜誰にも連絡せず、自分の足で近くの病院に行き、そこで肺炎と診断されました。その夜は近くの亀田病院で家族全員が集まり、呼吸に苦しむ彼女を緊張の中で見守りました。そして、本当の悪い知らせを受けました。血液検査の結果、彼女が白血病を患っていることがわかりました。


白血病は本当にひどい病気です。自らの血が体を死に追いやりながら、追加の輸血で回復に向かう希望を消し去ります。


私は彼女が転倒したときに一人にしてしまった自分を責めました。でも、その後の数ヶ月間、輸血の量が増えながらも、彼女はかたくなに「転んでいなかったら、私の病気自体が早い時期に発覚しなかった」と言いました。


悲しいことに、急性白血病は早期であっても治療法がありません。しばらく経ち、彼女は築地にある国立がんセンターに移らなければいけなくなりました。医者たちは素晴らしい処置を施してくれましたが、すでに病弱であった彼女の弱体化を止めることはできませんでした。この病気の最終段階では、血液が脳に漏れるようになります。ベッドのそばにいる時、彼女の意識を保つために、家族で昔の思い出を話したり、一緒に歌を歌おうと促したりしました。亡くなる前夜、彼女はか弱い声で、私たちと共に美空ひばりの心に残る名曲、「川の流れのように」を歌いました。

人生ではじめて、コントロール不可能な悲しみというものを経験しました。


同じ悲しみに、息子とその妻たちが開いたお別れ会でまた再会しました。

私がいつまでも愛する靖子の写真と共に、彼らはまたその歌を流しました。



“川の流れのように、知らず知らず歩いてきた、細く長いこの道”.....




# by rontanno | 2018-05-14 08:20  

教育者たるもの、子供の選択肢を奪うべからず。



「総合型地域スポーツクラブ」ってご存知ですか。

文科省が全国に広げようとしている地域主体のクラブ活動で、
ヨーロッパの地域クラブを目指して日本にも導入されました。

ドイツでは部活の概念がなく、地域のクラブで老若男女が集い様々な運動を行う文化があります。
スポーツのレベル向上のみならず、年配者も家から出てコミュニティに参加することで、地域の医療費削減という効果も出ています。

僕が宿泊施設を運営する千葉の鋸南町でも鋸南クロススポーツクラブというクラブを立ち上げ、いろんなスクールをやっています。

その中でもスカッシュは結構盛んです。
伊藤+松澤コーチの頑張りでつい最近まで2-3人の子供が遊び程度で行っていたチームが、今は20人弱の子供とお母さん方が真剣に取り組んでいて、中にはアジア遠征にチャレンジしている子供も数人います。
今年3月の全日本ジュニア選手権には16名が参加し、国内でも有数のチームになりました。

現状は子供の部の最年長が小学6年生なので、4月以降の活動環境を確保するため、地元の中学校の部活動にスカッシュを取り入れてもらうべくコーチが学校に提案したとのこと。

活動場所、コーチ、事務局、すべてクラブが担当し、学校には一切のコスト負担や手間をかけないという提案です。
鋸南町はスカッシュの全日本選手権と国体の開催地も経験しており、地元の子供が海外遠征にもチャレンジし、その規模とレベルも月ごとに向上している。

そんな中で部活を新設するというのは比較的理にかなっている提案だと思いませんかね。
総合型地域スポーツクラブが地方地域の部活の補完をするのというのは、まさしく文科省が目指す一つの形でもあります。

学校の返答は「新規の部活を作るつもりはない。」
ちなみに部活動は必須なので、スカッシュを取り組めないとほぼ同義です。

どうやら、生徒数の減少が進む中で新しい部活を作ってしまうと、野球やサッカーのようなチーム種目が成り立たなくなることが理由みたいです。

僕の仲間の息子が野球を頑張っていたりするので、チームが成り立たなくなるのは確かに大きな懸念だと思いますが、一方でスカッシュ等ほかのスポーツをやりたい子の選択肢を減らしてまで、既存のチームを成り立たせるというのはさすがにおかしいんじゃないか。

僕は地方が衰退する最大の原因は「選択肢の減少」だと思っています。

仕事の選択肢、教育の選択肢、恋愛相手の選択肢、取り組めるスポーツの選択肢、人口の減少により選択肢がどんどん少なくなる中で、都市部に若い世代が流入する。そうするとますます人口が減り、ますます選択肢がなくなる。

そんな地方地域で教育に携わる人々は、子供の選択肢をいかに増やすかにすべてをかけるべきだと僕は考えます。

田舎だからと言って新しいスポーツとか、言語とか、海外の友達とか、芸術とか、そういうものに接することをあきらめる必要がないんだということを、子供たちに感じてもらうことが地方教育者の使命だとさえ思います。

兼部を認めるとか、試合の時の助っ人をありにするとか、本気になればいくらでも工夫の余地はあるのに、「新しい部活は認めない。」以上終わり。

6年生の卒業まであと2か月。
両コーチはあきらめずに部活化を目指すみたいです。 — 伊藤 鉄平さん、松澤 彩香さんと一緒です。

# by rontanno | 2014-01-25 07:25  

報告2つ

あけましておめでとうございます!


新年早々、南房総のサンセットブリーズに来てみました。
世の中のお休みがサンセットの繁忙期、宿泊業なので当然ですが、スタッフには感謝です。

2013年は当社(R.project)にとって変化の多い年でした。
そんな2013年暮れに決まった出来事を2つご報告。

①クラスルームズ箱根の事業終了

2013年7月にオープンしたばかりの当社の第2拠点ですが、11月に撤退ということになってしまいました。

https://www.facebook.com/ClassRooms.Hakone

この事業はもともと、2012年に箱根町が仙石原中学跡地活用の公募をかけ、当社と星槎グループという学校法人が共同の事業体として応募して選出をされました。
星槎グループは通信制の大学の拠点として活用し、学生がいない期間やスペースが多いため、当社がそれを活用し宿泊事業を行うという、「シェア型」の廃校活用プランでした。

箱根町にも学問と観光の融合という観点や、スポーツ合宿や外国人バックパッカーという、それまで箱根町に少なかった客層の開拓という観点で期待を持っていただいていました。

町との契約の形式上、どちらかの企業が代表にならないといけないため、星槎グループが代表企業、当社が構成企業という座組みで契約をしました。

オープン前から、当社がふだん付き合いのある旅行代理店やスポーツチームから多大な関心をいただき、初年度にしてはとても多くの予約をいただきました。

ところがオープンの直前、事業パートナーの星槎グループから箱根町に対して、当事業を単独で行いたいという申し入れがありました。
契約上の代表企業からの申し入れということで、箱根町もその申し入れを受け入れ、その時点でいただいていた11月の予約までを当社が受け、その後は撤退をするということになってしまいました。

宿泊施設のようなサービス業にとって、第2施設というのは特別な意味を持ちます。
それまで試行錯誤で行っていたことをある程度モデル化して、違う場所で新しいスタッフのもとで通用するかを試す、ステップアップの機会です。

僕たちも日本を代表する観光地での新たな拠点ということで大きな期待をもって進出しましたが、
大変残念ながらわずか3か月の運営で終了してしまいました。

当事業については様々な方にご相談をしたり、支援をいただいたり、何よりも多くのお客様に活用いただきました。
皆様の期待に応えられず、そして合宿地をわざわざ箱根に移していただいたお客様には来年の受け入れもできず、大変申し訳なく思っております。

都心から近い避暑の合宿地のニーズが高いことは強く実感いたしましたので、現在富士山エリアで代替地を一生懸命開拓しております。さらに素晴らしい環境で箱根の代わりの施設を運営できるように努めますので、今後ともよろしくお願いします。

a0255362_19325244.png



②昭和の森ユースホステル+キャンプ場跡地の運営が決定

箱根の事業終了と並行して、千葉市の昭和の森公園の中のユースホステルとキャンプ場跡地(平成26年3月で終了)の運営について進めていました。
これもやはり公募形式で、12月26日、千葉市から正式に発表があり、記者会見も行われました。

http://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/kanri/Syowanomori-yusenkosyousya.html

(直近の売り上げはもっと多いです、どうでもいいけど)

千葉市は実は東西にかなり長い市で、一番東は九十九里まであと少しというところまで伸びています。

その東端に位置する昭和の森の中の宿泊施設を運営することが決まりました。

この公園はクロスカントリーランニング(今はトレランですね)のメッカで、特に冬のシーズンはランナーでにぎわいます。

a0255362_20401765.jpg


今後、ユースホステルをランニング含む様々な合宿施設にして、
公園利用者のランニングステーションとしても開放し、
キャンプ場はcolemanと組んでオートキャンプ場に変えます。

a0255362_2040373.jpg


ハードは素晴らしいのに、顧客に不便な利用制度が残っているので、
民間企業らしくユーザー視点でルールをどんどん変えていきます。

千葉市といえば熊谷市長、僕の一つ年下の政令都市最年少の市長です。
限られた財源の中で様々な公共サービスの改革に取り組んでおられる同市長のもとで、
公園の中の公共施設の民活という素晴らしい機会をいただいたことをとても光栄に思います。

一般的に、こういう施設の民営化は運営委託や指定管理という、結局は行政の負担が残る形で取られますが、今回は賃貸形式なので、今まで赤字だった施設が市の収入源として生まれ変わります。

僕たちは今後も、地方行政の負担になってしまっている施設を活用して都市部や海外から人の流れを呼び込む事業にチャレンジしていきます。


2014年もよろしくお願いいたします!

# by rontanno | 2014-01-01 20:41  

辞め際

今日は社員の送迎会。



サンセットの立ち上げからずっと一緒にやってきた調理責任者、宮嶋さんが次のステップを踏みだします。


千代田区が閉鎖した施設を0から再生するという無茶な取り組みに付き合ってくれて、実現をしてくれた人。


今夜は途中で辞めていった社員と現在の社員の総勢30名弱で別れを惜しむ会。



a0255362_2104088.jpg




5年の道のりではいろいろあったけど、今夜の宮嶋さんの一言がうれしかった。


「僕が辞めて、数年経って、サンセットを外から見た時に、ここに勤めていたんだと胸を張れるような会社にしてください」


→Ok。


人に惜しまれながら辞めるというのは仕事人冥利につくと思います。





僕がリーマンブラザーズ証券に勤めていて、一番印象に残っている出来事。


バカみたいに稼ぐ同期や、ライブドアショックを間近に見たことや、その他いろんな刺激的なこともあったけど、

最終勤務日のこと。


僕は競合他社に移るという、証券会社では最もタブーな辞め方をしたんだけど、


最終日に待っていたのは、「オフィスをすぐに出ろ」の辞令でもなく、荷物が積まれている段ボールでもなく、


お別れのケーキでした。



外人も日本人も後輩も先輩も席を立って、ケーキを持って戸惑う僕の別れの言葉を聞いてくれました。


辞める直前にあって、「本当に辞めるべきだったんだろうか」と本気で悩みました。


複雑な気分だったけど、幸せな辞め際だったなと感謝しています。






宮嶋さん、惜しまれながら辞めるあなたも幸せだし、退社してるのに鋸南町に集まってあなたを送るスタッフを持った会社も恵まれてるね。


数年後、サンセットを立ち上げたことを誇れるような会社にしていきます。



体に気を付けて、楽しみにしていてくださいね。



おつかれさん!

# by rontanno | 2012-07-17 02:12  

祭りの後

昨日は鋸南町のお祭り。


鋸南町にもいろんな地区があって、その中の「町」という地区のお祭りに参加してきました。

僕は町区とは直接関係ないですが、鋸南町で仕事をして間もないころからこの地区の方に誘ってもらっています。
今年で4年目、いまだに太鼓も笛もできないので、見学に来た外人観光客の域を出ていないですが。。


小さな町のお祭りは、有名なお祭りに派手さにおいては引けを取るけど、その分地域の生活との距離感がすごく近くて、魅力があります。



毎年参加していて、僕が一番好きな光景。



街中を山車(だし)が回る中で、要所要所で止まり、芸者さんが踊りを振舞います。


a0255362_19412939.jpg



いろんな家庭や商店を回る中で、ときおり高齢の方がいる家に立ち寄ることがあります。


網戸の向こうから、正座して芸者さんの踊りと若い衆の太鼓や笛をじっと見つめている姿。
毎年この時期を楽しみにしている感じがします。



昨日、普段は勢いのある若い衆が、踊りが終わって余韻に浸っているおばあちゃんに一言、




「おばあちゃん、長生きしてね。また来年」




それを聞いたおばあちゃんが静かに手を合わせる。




笛も吹けないし、太鼓も叩けないし、しきたりもよくわかっていないけど、
僕なりに、祭りの神髄はこういうさりげない風景に感じます。



日本の原点を感じさせてくれる、お祭り。




来年は少しでも太鼓を覚えたいな。。

# by rontanno | 2012-07-15 19:42